FUJIメンターの系譜

これ程
1機種のエアロボディーを長生きさせたメーカーも少ないのでは?
 
昭和25年 日本の空に航空再開の鐘の音が響き
雨後の筍のごとく 航空産業が始まりました。
 
昭和27年 防衛庁の前身 保安庁は 
初等練習機として50機の調達予算を組みました。

それに応募すべく 川崎航空機岐阜製作所KAT−1とともに 
富士重工は アメリカ製ビーチクラフト社の T-34A(B-45)を 提案
(他にも東洋航空のTT-10等 提案された飛行機は在った様です)


その年の10月
 T-34Aに決定
昭和28年 保安隊/警察予備隊に各10機 米軍より貸与 と同時に
富士重工へ30機の発注
昭和29年10月に最初の2機が納入されて以来 昭和32年7月まで
ノックダウン49機 国産75機の124機が生産されました。

(青森在住のW氏情報では上記の432は五戸ひばり公園に展示)


39年からは 海上自衛隊、陸上自衛隊にも少数機が移管されました。


陸上自衛隊
岩沼(現 仙台空港)時代はオレンジ色だったそうです。


海上自衛隊



民間にも航空大学に7機移管されてます。
ハビーさんのH.P 民間機1950年代〜に写真があります)


さらに 東南アジアへの輸出販売・・・が
戦争賠償としてフィリピンへ
昭和33年から 昭和34年にかけて36機
更に昭和34年、1機をインドネシアに
 
この写真はフィリピン空軍メヂカルセンターで展示されていた
フィリピンメンター
(富士重工製)


さて、メンター生産と同時に
昭和28年暮れには 4/5座席化を計画

そして、昭和30年6月7日 LMの初飛行
 
(この写真 何と旧海軍機塗装をしたLM JA3098です)
工場内は まだメンターの生産に追われている頃です。

それが明くる昭和31年
LM−1
陸上自衛隊の連絡機として採用されました。

昭和31年9月8日初飛行 昭和33年3月までに24機が納入
これらは 米政府による域外調達として貸与を受けています。
この機体 天井が外れるんです・・オープントップでは無いのですが
そこから荷物を 出し入れする事が出来たそうです。



 「富士重工30年史」によれば
当時の民間機は よりパワーの在る双発機へと需要が変化
これに対して LMの性能を向上させれば・・・と
2機作られたLM民間機の 内1機をパワーアップの改造
(航空情報によりますと2号機JA3105となってます)

こうして生まれたのが
XKM(JA3119に改変)
昭和33年12月1日初飛行(おりしもT-1Aが初飛行した年)
IGSO−480−BIA過給器付きを載せ3枚プロペラ
当時そのずば抜けた性能を試すべく・・
富士重工テストパイロット 吉沢鶴寿氏により
昭和34年12月9日に重量1750kg以下のC−1C類高度記録に挑戦

9917mのFAI公認記録を達成!

しかし、このXKM 社有機ゆえの運命か・・・
胴体は暫く工場脇にシートかぶって 在ったのですが・・・






こうして生まれた
KM
最初に売れたのが航空大学(昭和34年2月完成)
ハビーさんのH.P 民間機1950年代〜に写真があります)


そして 海上自衛隊の次期練習機として採用され
昭和37年7月16日にKM−2が初飛行

当然、海上自衛隊は純粋の練習機仕様になり出入り口は右から左に
天井の開放は固定 操縦装置もスロットル含めて海上自衛隊仕様になる。
合計62機納められました。




高空性能を欲しかった陸上自衛隊もLM−1の3機を
パワーアップ改修して
LM−2 とし
昭和38に2機 年41年に1機受領


さらに
昭和56年には陸上自衛隊は 
練習機としてKM−2の陸上自衛隊仕様で
TL−1
として2機採用し宇都宮分校で使用ていました。


後に固定翼操縦教育の一部課程が海上自衛隊移管され 
TL-1は海上自衛隊に移管され、KM−2仕様になり
海上自衛隊小月基地で使用されました。




一方航空自衛隊のT−34A後継機を目指して
昭和49年9月26日
タンデム複座のKM−2B(JA3725)が生まれます。

初期の塗装(富士重工のカタログより)
エンジンをIGSO−480に換装 3枚プロペラと 
KM−2の顔になった。
1976入間の航空ショーで各種アクロ披露してましたね。
低空での10秒以上もの背面飛行も 披露してましたね!

そして、航空自衛隊に採用され

昭和53年1月17日にT-34A後継機として初飛行。
T−3

昭和53年3月から航空自衛隊に引渡しが始まる。
昭和57年3月まで 50機が生産されました。
現在 T-7にその座を移行しつつありますが、
この飛行機 3自衛隊の中で最後まで残ったレシプロ機です。






タービン時代へ


そして時代は、レシプロからタービンに 代わりつつありました。
次期初等練習機もタービン化と云う事で生まれたのが

KM−2D(JA8222)
昭和59年(1984年) 6月28日初飛行

(KEIさん写真提供)
無骨なキャビンはそのままで、
エンジンがアリソンのターボプロップエンジンに載せ変わり
垂直尾翼に後退角が付き 主翼翼端が尖って持ち上がった機体
オセージにも 私好みでは無いのですが
後のT−5のデータを取るべくして作られた機体です。

宇都宮の分校記念祭にもFA200に代わって
アクロバットを披露してくれました。

兎に角 静か
シューーーって向かってきて ゴーーーーって去って行く・・。


一方 海上自衛隊用T−5のモクアップ審査も行われ
視界、居住性、装備の近代化など思い切った設計が盛り込まれ
大きなバルブキャノピーが無骨なイメージを一新!

昭和62年4月27日初飛行
T−5として正式採用になる。

この機体の運動性を披露してくれるのが 海上自衛隊 小月基地の
「ブランエール」
2002年からアクロバットチームとして 活躍が期待されています。

参考 こちらのH。Pでも 垣間見る事が出来ます(^.^)
菊池写真館ブランエール






 方や 航空自衛隊次期初等練習機に提案すべく KM−2D(JA8222)が更に進化!
タンデム複座に作り変えられる(戻された?)
平成11年 ?月??日 KM-2Fが初飛行。
(登録はKM-2D−1かな?)
T−3の後継機としての数々の試験をこなしていると 聞きます。
FHIカタログより
そして
2002年7月9日T-3改が初飛行
菊池写真館 初飛行の写真
上半分が白下半分が赤と T-3の逆のカラーリング
後席後ろに エアコンまで装備 これまでの低高度での環境を改善
もちろん装備も向上 詳細は航空情報2003年8月号?
そして その年の9月19日 901,902が
その前任者であるT-3の526と522?を従えて 岐阜に旅立ちました。
さぁ!頑張ってくれよ!
菊池写真館の 納入フライト写真

平成15年(2003年)4月 正式採用され。
 T-7









海外で 現在も活躍している 富士メンターシリーズ


フィリピンもインドネシアも 既にリタイヤしています。



陸上自衛隊のLMは米軍の「域外調達」とし貸与受けています。
ゆえに米国政府に返却しなければなりません。

また T-34Aも貸与された分は 返還しなければなりません。
富士重製T-34Aメンターの内何機かも機数合わせ?で米国に渡ります。

で、米国に渡った飛行機は 民間に払い下げられます。

そのうちの何機かは 再飛行可能状態に改修整備され 
現在も米国の空を飛んでいるわけです。

EAAのイベント等で その姿を見ることが出来るそうです。

航空情報2002年1月号・・・右ページ
(律儀に当時のカラーリングで飛んでいる)
右下のT-34Aメンターは元航空自衛隊機
3枚ペラにチップタンクが とてもカッコイイ!
(T-7も チップタンク オプション装備しないかなぁ・・
アハ!(^_^;))


2002 TICO Warbirds Air Show
T-34Aやピラタスと編隊を組んで フライトを見せてくれたそうです
下の方のH.Pで紹介されてます。
The Ewan’s Place
2002 TICO Warbirds Air Show 

Japaneses Fuji LM-1 Trainer ・・・・・・・・・・・・
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アメリカオーランド活躍されてます和泉教官のH.P
何と売りに出されてるLM−1が紹介されてました。
なにせ 国内には1機も存在しないのですから・・・。
S/N 21020 1957年製







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